体験したことのないことを真剣に考えたい「ぼくがラーメンたべてるとき」
水道からお湯のような温度の水が出てくるので、毎回「お湯みたいなんだけど!」と声に出してしまうくるみです。こんにちは。子どもからは気のない「うん」が返ってきます。おばさんになると何度も同じ話しちゃうよね…

リライト記事(前ブログ2020年記事より)
第3子出産前後の数年は、今までにない体の不調を体験することが多かったです。
あえて前向きに良かったことを言えば、「世の中にはこんな症状もあるのだ」「私はこんな体質なのだ」と知ることができたこと。
同じ症状の人の気持ちが前よりわかるようになり、次に同じ不調が現れたときに動じずに済む、ということです。
市販の鎮痛剤でも、効く薬と効かない薬があり、自分に合うものを試して見つけておくと楽なこと。
脳貧血で倒れそうなときは頭を下にして、とにかくゆっくりと息を吸うこと。
つわりの食欲は意味不明で、何も食べたくないのにジャンキーなものだけ食べたくなるなど理解し難いものであること。
ブロック注射は恐れるほどには痛くないこと。
どれも、生理痛、脳貧血、つわり、ヘルニアなどを経験して、少しずつ自分の体を知り、不調と折り合いをつけてうまくやっていくためにいろいろと試行錯誤して学んだことです。
人は経験から多くを学ぶのだなぁと思います。
体の不調も人それぞれ。
自分と他人とでは、痛みの感じ方も体質もたぶん違います。
私の経験が誰かの役に立つ情報なのかわかりません。
自分の経験から学ぶ部分が多いですね。
けれど、実際は、もっと多くの人の体験談や積み上げられた長年の知恵などから、予防できたり、早急に対策できたこともあったのかもしれません。
自分がこれから経験することの多くは、過去の人々はもう経験してきたことです。
「愚者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」
たくさんの人々が積み重ねてくれた歴史から学んで考えることで、人間は未経験の事態に備え、善処することができるはずです。
水害を知らない私が、水害について考える。
資源の枯渇を知らない私が、資源について考える。
親の介護を知らない私が、介護について考える。
がんを知らない私が、がんについて考える。
戦争を知らない私が、戦争を考える。
どれも、事態が進んで自ら経験する時には抗い切れない大きな脅威。
しっかり準備しておくべきことです。
が…
日々の生活を送りながら、自分が経験していないことから学ぶというのはとても難しいことです。
生活に追われ真剣になれず、後回しにして、いざ脅威を前にしてはじめて考え始める、という怠惰な姿勢を正したいです。
幸い、と言うのは不謹慎ですが、戦争については日本では毎年猛暑のこの頃、考える機会が与えられます。
歴史から学べることがたくさんあります。
子ども達にもしっかりと考えて欲しい。
まだ子どもにとっては、自分が生きている今が当たり前の世界だと感じてしまい、歴史と今が同じ延長線上だということをうまく感じられないかもしれません。
では、時間軸を固定してみたら?
今、同じ空の下で戦争に苦しんでいる人たちがいることを想像してみる。
それもまた遠いような…?でも、少しずつなら?
子どもの目線にあわせた、そんな絵本があるので紹介します。
隣りの、隣りの… 少しずつ視線を動かして。
ぼくがラーメン食べてるとき、となりでミケがあくびした。となりでミケがあくびしたとき、隣の家ではみっちゃんが…。ぼくから始まり、隣りの隣り、とだんだんと距離が離れていき、やがて海を越え、家族の面倒を見ている子、働いている子、倒れている子。私たちが平和に過ごしている何気ない今この瞬間にも、過酷な状況で生きている子どもたちがいることを易しい言葉と分かりやすい展開で伝えてくれる絵本です。
中華模様の書かれた大きなどんぶりにラーメン。
窓が開いていて、のんびりとした休日の昼下がり。
日本では普通のよくある風景です。
ラーメン美味しいですよね。うちの子どもたちもラーメンが大好きです。
そんな僕の横では、あくびをする猫のミケがいます。
そのとき、隣りの家ではみっちゃんが、おせんべいを食べながら畳の上に寝転がってテレビのリモコンをポチ。
そのとき、その隣の家のたいちゃんはトイレ中。水を流すところ。
そのとき、その隣の家のゆうちゃんはバイオリンの練習中。
そのとき、隣町の男の子は野球でバットをふったところ。
そのとき…
と物語の舞台は少しずつ僕から離れていきます。
ゆうちゃんまでは、きっと「ぼく」も知っている子です。
知っている子については、みんな「今何してるかな?」と思うことがあるでしょう。
その感覚を覚えさせておいて、少しずつ距離を飛ばしていきます。
そして、舞台は隣りの国へ。
だんだんと、遊んでいない子どもたちの姿が描かれます。
赤ちゃんをおんぶしている子。
井戸から水を汲む子。
牛をひく子。
読み進めると、最初の日本の子どもの何気ない日常のチョイスが際立ってきます。
ラーメンのような美味しいものが気軽に食べられること。
働かずにテレビを見たりして楽しめる自由な時間があること。
ボタン1つで流れる水があること。
バイオリンや野球などにお金のかかる道具を使う習い事に一生懸命になれること。
どれもが、現代の日本では特別ありがたがるわけでもない、なんともない日常です。
絵本の最後には、倒れている子が1人。
ぽつんと倒れている子の他には何もないページに胸がズンとなります。
荒野を思わせる色彩は次のページでさらに暗くなり、
かぜがふいている
と、一文。
もずく(当時4歳)は「どうしたの?風で倒れちゃったんだね。」「大丈夫?起こしてあげるよ」と手を出してよいしょ、と引っ張る振りをしていました。
風で倒れたわけじゃないんだけど…まだ難しいよなぁ、と思いつつ、「助けてあげたい」というその純粋な気持ちこそが大切かもしれない、と思いました。
こむぎ(当時8歳)も、あまり理解はしていないようでしたが、神妙な顔をして黙って少し考えていました。
そして、最後にぼくに場面が移ったとき、ほっとしたようでした。
いつも妹の横暴をなだめ、私より上手に扱っている平和主義のこむぎには平和のコツを私が習いたいくらい。
なので、あまり説明などせずに、そっとしておきました。
きっと小さい子でも、言葉での説明を超えたものを感じ取れると思います。
遠くの国でも同じように吹いている、風に吹かれて。
何でもない日常への感謝と、平和への祈りと、隣人に対する優しさ、見えないどこかで起こっている悲劇を忘れないように。
何度でも読んであげたい絵本です。
今現在も、パレスチナのガザでは、なけなしの物資を配る場所が銃撃の標的にされているとラジオで聴きました。そんな中、現地の1人がジャーナリストに望んだことは、世界中にこの事実を伝えること、だったそうです。知ったからと言って、何かを変えられるわけではないけれど。知ることがはじめの一歩。
