赤ちゃんにだって用事がある。「赤ちゃんのようじママのようじ」
時々無性に柿が食べたくなるくるみです。こんにちは。
3人目が小学生になり、自由に1人で過ごせる時間が増えました。
今思い返しても、赤ちゃんを育てるということは本当にとんでもない労力を必要とすることでした。
今では3人の親になっているものの、私は子どもを産むまで、子どもを育てるということについて、まるで無知でした。
というより、何かを真剣に「育てる」こと自体がほぼ初体験。
職場でも、先輩に面倒見てもらうのが得意。後輩とは友達感覚で、頼ったり頼られたりしていましたし、生まれつきの末っ子気質。
世話はするよりされる方。
動物を飼うこともままならず、植物のお世話もできない私。
甘えてなんぼ、頼ってなんぼの人生を送ってきた私に、訪れた試練が「子育て」です。
子育てなんて人間の数だけみんながやってきたんだからきっと自分にもできるだろう、と甘く見ていた私。
一口に子育てといっても、要は、人と人。無数のケースが存在し、 一括りにできないもの。親の性質と子どもの性質によって、無数の組み合わせが存在する。
ということも知らず、実際に子育てをしてそのことを学びました。
子どもの性質だけをみても…
よく寝る子。全く寝ない子。
離乳食をよく食べる子。全力拒否の子。
元気な子。病気を患っている子。
ご機嫌な子。癇癪を起こす子。
積極的な子。慎重派な子。
その他項目は数知れず。
そして、それぞれの項目の中でも白黒2極の間に無数のグレーのレベルがあるわけです。
「育てやすい・育てにくい」と言ってしまうと、親の勝手な指標だろうと批判もあるでしょうが、3回の子育てを経験した拙い私見では、「育てやすい・にくい」という観点は間違いなく存在します。
親の性質との相性ももちろんあるでしょうし、決して「育てにくい」=「悪い」ではありません。
植物だって、手間がかかり、「育てにくい」けれど、きれいな花で人を癒すものもある。「育てにくい」からこそ、やりがいを感じられたり、チャレンジ精神を掻き立てる良い刺激と捉えることもできる。
ある場所では「育てにくい」けれど、環境が違えば「育てやすい」と感じるような植物もありますよね。
なので、あくまで1つのケースとして、読んで欲しいのですが…
私にとって、しろめしは非常に育てにくい子でした。
寝ない、食べない、熱出す、薬は飲めずにすべて吐き出す、後追い、人見知り、癇癪、天邪鬼…
初めての子だったので、子育てとはこんなにも大変なことなのか!!と何度となく衝撃を受けました。
その中でも、6カ月くらいまでの赤ちゃんにとって、寝るか寝ないかは子育ての大変さを大きく左右する項目だと思います。
しろめしは、とにかくまあ、寝ない子でした。
抱っこで寝ても布団に降ろすと99%起きる。
1%で寝たとしても、ティッシュをとる音でも起きてしまうほど音に敏感でした。
だっこひもなどは体を反って全力拒否。
眠れないと癇癪。
とにかく、自分だけの力で抱っこして、泣きやむためのスクワット運動を繰り返す日々。
いまだに抱っこしながら家の窓から見た街灯の光景が頭に浮かびます。
ご機嫌の時間は本当に貴重でした。
困り果て、眠れない子の対処法を調べて、ほとんど試しました。
生活リズムを整える、外遊びをさせる、クラシックをかける、背中をトントン、おでこを撫でる、絵本の読み聞かせ、寝たふり、もういっそ寝かしつけずに起こしておく、車でドライブ、寝ろ〜というプレッシャーをかけないように違うことを考える…
その方法の中に「泣き疲れて眠る」というものがありました。どんな子でも泣き続けると疲れて眠る、という理論です。
泣く姿に同情せずに耐えて疲れるのを待て、という方法でした。
泣かせることが罪悪感を生むあげく(場合によっては近所迷惑も)、一日の最後に泣き疲れて寝た涙の跡の付いた我が子の罪のない寝顔を眺める、という母親にとって恐ろしい結末の、悪魔の寝かしつけ法です。
ありとあらゆる方法を試してうまくいかず、とうとう悪魔の方法に手を出した私。
結果、彼は1時間半、ぶっ通しで泣き続けました…。
途中心配になってマグを飲ませてあげたり、あまりのことに熱を測ったり。
結局どこも悪くなく、ただただ、抱っこしてもらって寝たいだけなのでした…。
1時間半泣き続けられるって、相当です。(私の知る限り、なかなかいないです。)
その後抱っこしたらいつもより早く寝て、ほっとして涙。罪悪感。
そして、私は悟ったのです。
寝ない子は寝ない。
親がこうして欲しいと思っても、簡単にそうなるわけではない、と。
この、1人では食べることや寝ることさえままならないような、小さい生き物にも、強い意志が存在しているのだ、と。
正直、このことを知ったことは、私の人生にとってとても大きな出来事となりました。
2つの大きなことを身をもって学ぶことができたからです。
「人は変えられない。変えられるのは自分の意志と行動だけ。」ということ。
そして、「自分にとっては不本意でもある、眠りたくない子供の眠りたくない(眠ることができない)性質を、親は認めて受け入れなければならない。恐怖政治で変えることはできないし、すべきではない」ということ。それこそが個性を認めることであり、「みんな違ってみんないい。」ということなんだということ。
このことは子育てには限らないことだと思います。
きっと、子どもを育てなくても、様々な人間関係から学んで知っている人は多いのでしょう。私が子供から初めて学んだ、というだけで。
子どもを産む前に学んでいられたら、もっと寛容な心でただただ可愛がりながら、しろめしを育てられたのかもしれません。
そう思うと、しろめしに申し訳ない気持ちになります。
眠くて、重くて、へとへとに疲れていて、イライラして、寝かしつけしてしまった日々。
「あなたはほんとにうまく眠れないんだね」と笑う余裕がなかった私。
この絵本のママには、赤ちゃんにも赤ちゃんの用事があると思う感覚があって、その姿勢がとても素敵です。
しろめしの小さい頃のことを思い出しました。
赤ちゃんにも用事があるんだ
赤ちゃんのハンナははいはいが得意。「ハンナ止まって!ママはご用事があるの」とママが言っても関係なし。すばやくハイハイするハンナと抱きとめるママのやり取りが温かい絵本です
積み木で遊んでいてと言われても、海辺のカニさんよりすばしこくはいはいで出ていくハンナ。
ママの体操を見ていてと言われても、棚にある本をほとんど引っ張り出して、のはらのネズミさんより素早く逃げ出す。
電話の間、そばで遊んでいてと言われても犬のジェイクのそばまでキノボリトカゲより速くはいはい。
はたけのウサギさんより速くはいはいしてキッチンの鍋を散らかします。
「ハンナさん それも あなたの ごようじなのね」
という、ママ。
絵はあまり可愛い感じではないけど、ママの愛が溢れています。
育児中、ママは赤ちゃんがいるとトイレも自由にいけません。
「用事」とは、しなければいけないもの。
トイレに、仕事や家事に、人間関係に、食事に、最低限の身支度…
特に自分がしたいわけでもないものも含めて、大人にはたくさんの用事があります。
育児は、したいことができなくなるなんて生半可なものではないのです。
しなければ生きていけないことさえもままならないもどかしさ。
当たり前にできていたことが、拘束されることの不自由さ。
けれど、それは赤ちゃんも同じなのかもしれません。
たくさんのことを五感で感じて成長する、その興味こそが用事。成長の糧なのです。
このママはハンナに対して、
それもあなたのごようじだったのね
と言います。
ママに用事があるように赤ちゃんにも用事がある。
そう思える感性に、はっとします。
絵本をひろげ「これは ふたりの ごようじね」というママ。
絵本にはこれまでの動物たちが登場します。
キノボリトカゲという我が家ではなじみのない動物がここで再び出てきて、こむぎは「絵本に出てくる動物だったんだね!」と喜んでいました。そんな小さな発見が絵本を楽しくします。
小さい子が好きなこむぎは、ハンナの様子に当時ハイハイをしていたもずくを重ねて、「ぜんぜん言うこと聞かないね(笑)」と楽しそうでした。
そう、もずくは自由奔放。たぶんおこめの時より、寛容になっている私。
同じ親の子育てでも変化はするもの。
親としての成長なのか、老化なのかはさておき、子育ては人と人との関係です。
人は時とともに変わる流動的なもの。
その時その時の精いっぱいの自分をぶつけることしかできないと慰めながら、今日も過ごすのです。
長くなってしまいましたが…
大人の用事と子供の用事を天秤にかけ、大人に軍配が上がる、と考えている全ての人に、読んでもらいたい絵本です。
うちにはもう赤ちゃんはいないことが、少し寂しくも感じるような…