同じテーブルに座っていても見えているものがちがう「ねえねえ、なに見てる?」
子どもたちの夏休みの宿題に翻弄されるくるみです。こんにちは。

小学校の個人面談では、保護者も先生も生徒のイスに座り、生徒の机を挟んで先生と向き合って話すのですが、そのイスや机は大の大人が座るには小さくて低くて、まるでコントのようで、笑ってしまいそうになります。
ぐるりと周りを見渡すと、教室も自分のイメージよりも狭いことに驚きます。
私の小学校はもっと広かったような?
いや、それはきっと小学校が違うからではなく、私が成長して大きくなったからなんですよね。
人に対してもそんな感覚はあって…
あんなに大きく見えた両親もいつの間にか同じ目線になっています。
私は身長が低いので、彼らを追い抜いてはいないのだけれど、ここのところ、もう70歳を過ぎた彼らはとても小さく見えます。(実際にも縮んでいる気もしますが)
普段は、お母さん、お父さんとして私の目に映る彼らが、ふとした時に、もうまぎれもなく、弱り始めている老人ということに気付いてしまう時があり、ハッとします。
こんなにシワシワの目元だったっけ?こんなに骨格がわかるほどに骨ばっていたっけ?
改めてよく見ると、こんな顔立ちだったっけ?と思うことすらあります。
慣れ親しんだ両親の顔のはずなのに。
人は、視界に入っているものを、カメラで写すようにそっくりそのまま認識しているわけではなく、思っているよりも、脳で加工して見ているのだと思います。
一方、鳥は実は記憶力が良すぎるという話を聞きました。
にわとり頭という言葉があるくらい、鳥は物忘れしやすいという印象があるのですが、餌を隠した場所の景色を、見たまま正確に細かいレベルで覚えているからこそ、雪が降って景色が変わったり、風で枝が折れているなどの変化があると、違う場所として認識してしまうらしいのです。
対して、人間は視覚情報をざっくりと受け取るのが得意で、曖昧な部分があるからこそ変化にも対応できるということです。
それはつまり、やはり、視覚情報そのままを捉えているのではなく、脳で加工して見ているということなのでしょう。
そんな感覚が体験できる絵本がありました。
同じテーブルに座っていても見えているものはちがう
トーマスの家族は大家族。11人と1匹がテーブルにつきます。人と色の見え方が違うトーマスの目から見ている世界。生き物好きの姉さんが見ている世界。小さな弟はなんでも大きく見え、ゲーム好きのパパはドット絵のように世界が見え、音楽家のおじさんは音も目に見える。同じテーブルなのに家族みんなが違う風に見てるなんてびっくり。多様性や他者との違いについて考える扉を開く絵本です。
ページをめくるたび、視点の持ち主が変わり、家族それぞれから見た食卓風景を描いている絵本です。
それぞれの世界はデフォルメされていて、特徴的で、見ていて飽きません。
体格差のせいで見る角度が違う、とか、色覚が人と違う、とか3Dメガネをかけているとか。
そういう物理的、身体的な原因もあるけれど。
見たいもの、見たくないもの、好きなもの、見慣れたもの、興味があるものが外の世界を見え方に大きく影響している様子がよくわかります。
一緒に暮らしている家族でさえ違う風に見えているという不思議。
自分が妊娠したら、町を歩いているとやたら妊婦が目に入るようになる、みたいなことも同じでしょうか。
まるで一人一人が見えないメガネをかけているようだと著者はあとがきで書いています。
自分の、自分だけのメガネを通して見ているこの世界。
当たり前のように自分が見ている世界が真実で、正しいと思うことは危険です。
それぞれにそれぞれの世界があるのだから。
私は偏見に満ちていそうな自分のメガネについて考えることが少しイヤだなと思ったのですが、著者はこんな風に書いています。
わたしたちはみんな「目に見えないメガネ」をかけています。
そのメガネでどんなふうにまわりを
見ているのか考えてみませんか。
きっと楽しいと思います。
楽しい…か。
確かに、この絵本で,画家のおばさんやゲーム好きのお父さんの世界は、アートのようで素敵でした。絵が上手な人が捉えている世界は私が見ている世界とは解像度が違いそうです。
同じように散歩をしているとしても…
建築好きなら図面を思い浮かべながら建物を見るかもしれないし、気象予報士なら微妙な雲の違いにも気付くのかも。野鳥愛好家なら見たことのない鳥の動きに心躍らされるかもしれないし、珍しい苔に感動する植物研究者もいるかもしれない。
うん、楽しいかも!
私の世界は絵にするとどんな風になるだろう?

みなさんも考えてみては?