これは役に立つ?立たない?という視点「えのすきなねこさん」
生まれて初めて胃カメラの検査を受けてきたくるみです。こんにちは。
機械的で愛想1つない医師が鼻からぐいぐい管を入れていきました。看護師さんのフォローが神です。感謝。
さて。
物事を捉えるのにはいろいろな観点がありますが、役に立つ、立たないというのも1つの大きな視点です。
人の役にたつように。
社会のためになるように。
生活のために。未来のために。子供のために。
私たちはそれが正義であるかのように教え込まれています。
何かの、誰かの役に立つということはとても分かりやすく、充足感を得やすいものです。自己肯定感も上がります。
対して、役に立たないもの。
遊びや趣味?
活かす予定のない能力?
もう使うこともない、がらくたたち?
こうして、例を挙げようと試みても、その難しさに気付きます。
役に立つ立たないの境目って決められるものでしょうか?
今は使わなくても、いつか役に立つかもしれないもの。(その逆も。)
自分にとっては無価値でも、誰かにとっては大切なもの。(その逆も。)
実際に何かに使われたりはしないけど、心を満たしてくれるもの。
これらは役に立つと呼べるのか、呼べないのか?
今日の絵本は、役に立つ立たないという物の見方について、考えるきっかけとなる1冊です。
役に立つかわからないのに、やりたいこと
絵を描くのが好きなねこさんがいました。そんなねこさんのところへ、仕立て屋のうさぎ、魚釣り名人のきつね、大工のさるがやってきて、絵を描いてばかりいるねこさんに「絵なんて、いったい何の役に立つというの?」と言います。けれどもある雨の日、3匹はネコさんの家に訪れて…。たくさんの気付きを与えてくれる絵本です。
服は無いと生活できない。食べ物も、家具も。
生活に必要な、大切なものを作ったり直したりするウサギやキツネやサル。
そんな彼らは役に立たないものに対して厳しい眼差しを向けます。
この絵本の中で、役に立たないものとは‟ねこさんの絵”です。
けれども、ねこさんは絵を描くこと好きで、描き続けます。
レオレオニさんの「フレデリック」にも通じるようなお話です。
目的に直結していない、一見何のためかわからないこと、無駄に思えることをどう捉えるか。不要不急という言葉に直面した昨今、考えた人も多いテーマではないでしょうか。
いま、改めて考えてみると、役に立たない例を書き並べようとしたとき、思い付いたそのほとんどは物質的に何かを変えるものではなく、心を動かすもののような気がします。
私にとってのそれは、読書や手芸、なんとなく勉強している使う予定のない英会話、子どもと一緒に作ったがらくたのような工作…
ウサギたちは絵を描き続けるねこさんに問いかけます。
何の役に立つの?
と。役に立つことでなければ、やってはいけないことのように。
(ここからネタバレ含みます)
この絵本では、ねこさんの絵でみんなの心が満たされ、ハッピーエンドを迎えます。
ねこさんの絵は、心を満たすという役に立つのだ、とみんなが納得するわけです。
でも…
へ理屈屋の私は思います。
今回はみんなが絵を楽しんでくれたけれど、もしねこさんの絵が誰の心も満たさなかったとしたら…?
ねこさんは絵を描くのをやめるべきなのでしょうか?
ねこさんは言います。
ぼくは えをかくのが すきで じょうずで
ほんとに よかった
と。
これは他人の役に立った喜びなのでしょうか…
そして、ねこさんの嬉しそうな姿を見て、私は気付きました。
人の役に立たないかもしれないと思っていても、どうしてもやりたいこと。
それこそが最も自分の心を満たすものなのかもしれない、と。
なぜなら、誰の役に立たなくてもやり続けたいと思うくらいなのだから。
社会の中で生きる人間にとって、他者の役に立つ、というのはとても大切なことです。
役立つ仕事をしてくれているたくさんの人の恩恵を受けて、私の生活は成り立っているのです。
…けれど。
自分の心を満たすことについても、もう少し寛容になってもいいんじゃない?とねこさんが呼びかけてくれます。
役に立つ立たないばかりで物事を測るのでなく、あわよくば誰かの役に立てたらいいなくらいの距離感で、自分の心を満たすことにもっと目を向けてもいいのかもしれません。
他の動物たちにしたって、たとえば仕立て屋のウサギさんにとっても、服を作ることは自分の心を満たす側面もあるはずです。
それにしても、ねこさんの個性的な絵たちに、もずくもこむぎもくぎ付けでした。
ねこさん(というか、にしまきかやこさんなんですけど…)の才能に見惚れて、自分の心を満たすことは結果的に誰かの心を満たすのではないか、という希望的な感想も抱きます。
とてもおすすめの絵本です。